日本におけるメンタルヘルスの現状課題と、これからの展望

尾林誉史
株式会社産業医 代表取締役/VISION PARTNER メンタルクリニック四谷 院長。 精神保健指定医/日本医師会認定産業医/コンサータ登録医師/公認心理師。 東京大学理学部化学科卒業後、(株)リクルートに入社。退職後、弘前大学医学部医学科に学士編入し、東京都立松沢病院にて臨床初期研修修了後、東京大学医学部附属病院精神神経科に所属。現在、23社の企業にて産業医およびカウンセリング業務を務める他、メディアでも精力的に発信を行なっている。
企業の健康経営に対する意識の萌芽とともに、メンタルヘルスへのケア意識も少しずつ醸成されつつある日本社会。とはいえ、メンタルヘルスケアが文化として根付いている欧州諸外国に比べれば、まだまだ解消していくべき課題も山積だといえます。本コラムでは、多くの企業で産業医としてカウンセリング業務に従事されている尾林誉史先生に、日本におけるメンタルヘルスの現在地とその背景、今後万全なケア対策していくために大切なことなどについて伺いました。
必要な人の受け皿としては、まだまだ供給が追いついていない日本の精神医療
──産業領域を通した日本の予防医療を諸外国と比較したとき、足りない部分がまだまだ存在しているかと思います。実際の現場を通して感じる、日本の予防医療の現在地や課題について教えてください。
「心身のメンテナンス」について考えた場合、フィジカルの領域では、日常生活でのメンテナンスをポジティブに捉えられる意識が日本でも根付いてきていると感じています。たとえば、「フィジカルトレーニングで健康を維持している」と他の人に伝えることに抵抗を感じることは少ないでしょう。一方で、メンタルの領域に関していうと、「カウンセリングを受けている」という話題はまだまだネガティブな文脈で着地してしまいがちです。諸外国では、自身の精神衛生をきちんとマネジメントしているという事実は好意的に受け取られる空気ができている一方、日本では「心が弱いのでは」とか「病気を抱えているのでは」といったように、その人特有のネガティブな事象として捉える向きがまだまだ強いように感じます。
気軽にカウンセリングを受け、自身の精神衛生をより良くするということが進まないのは、やはりメンタルヘルスに対する根強い偏見、ある種の異常な疾患として考えてしまう文化があるからではないでしょうか。加えて、需給バランスの悪さも問題でしょう。日本国内におけるメンタルクリニックや心療内科は、必要とする人に対する受け皿としては少なすぎるのではないかと感じています。クリニックや精神科医の数に、メンタルに問題を抱えている人の数を割り出せばいい…という単純な話ではないので、定量的な分析は難しい側面もありますが、初診予約に2か月待ちというような状況を目の当たりにすると、感覚値ではあるものの、問題に直面している人を100とすると、受け皿のキャパシティは10もないのではないかという気がしています。
メンタルを良い状態で維持していこうというモチベーションが、前向きで先進的なアクションとしてポジティブに受け入れられていないのは、そうした現状が大きく影を落としているからではないかと思います。
さらにいうと、「ちょっと心がつらいな……」と思ったときに、日本ではまずクリニックにかかるのが一般的ですが、そこからカウンセラーを紹介してもらうケースがまだ成熟していない。薬物医療を用いず、まずはメンタル不調の人の思考の枠組みやものの捉え方を変える「認知行動療法」によって健全なメンタルを取り戻すというカウンセラーの本領を、クリニックがボトルネックになって十分に発揮できていない構造に陥っている点も問題です。これは非常にもったいないことだと感じています。
精神医療の課題とその背景に見え隠れする日本独自の医療体制
──欧州諸国にはないこうしたメンタルヘルスへの偏見が日本に根強く存在しているのはなぜなのでしょうか。
おそらく、原因は2つあるのではないかと思います。1つは世界の中でも独自の成長を遂げてきた日本の国民皆保険制度。日本人にとって、健康・医療は保険制度で賄ってもらうというのが一般的な感覚であり、精神医療もその例外ではありません。そんななか、カウンセリングには保険が適用されません。自腹を切ってまでカウンセラーに診てもらうというところに視点や発想が及ぶ人が少ないというのは、一般的なコスト感覚から見ても、ある種致し方ないのかもしれません。
もう1つは、日本の精神医療のメインストリームが長らく「統合失調症など重い疾患の患者を長期入院させる」というところにあったことだと思います。統合失調症に関しては良い薬も登場し、前時代に比べれば回復して社会復帰できる人もかなり増えていますが、やはり完治しにくい疾患であるという点は変わりません。そのため、基本的に患者は薬物治療を優先的に行いながら、かなりの長期間、ときには一生にわたって入院をしなければならない……というイメージが、日本の精神医療のスタンダードとして定着しています。そうしたなかで、うつ病や不安障害、睡眠障害など、誤解を恐れずにいえば統合失調症に比べて症状の軽い疾患は、メンタルの問題として軽視される傾向もあるのだと思います。
メンタルヘルスのリスクをいかに定量的に可視化できる仕組みをつくるかが企業浸透のカギ
──そうした偏見は、働く人のメンタルヘルスに対する意識を希薄にすることにもつながっていると言えそうです。企業がメンタルヘルスの重要性や、不調に対する予防意識を深めていくためには何が大切なのでしょうか。
従業員がうつ病や適応障害などで休職せざるをえなくなれば、それによって被る経済的な損失が企業にはあるのだということを、しっかり数値として伝えていくしかないと思います。
予防は、「もしかしたら発症しなかったかもしれない」リスクに対する投資です。“転ばぬ先の杖”だったのか、元々転ばなかったであろうものに“余計な杖”を与えたのか、そのあたりの曖昧さを解消していくのが課題でしょう。数字をきちんと織り交ぜながら、たとえば100人の従業員がいて、何もしなければ10人がメンタル不調になっていたところを、予防対策によって5人だけで済んだ……といったような改善効果を地道な数字検証で可視化していく、積み上げていくということが、メンタルヘルス対策を当然のことだと思える文化へと成熟していくためには必要なのではないかと思います。
また、企業は従業員のメンタル不調が一定の割合で発生することは頭でわかっても、その場合の経済的損失、人的損失までをなかなかリアルに想像できないケースも多い。多少無機的にはなってしまうものの、従業員のメンタル不調による企業損失を数字で説明するということも、企業がなかなかアクションを起こさない状況なのであれば、必要になってくるのではないかと思います。
ストレスの質を見極められるリテラシーを高めることが重要
──企業に対するメンタルヘルスの意識改革がある一方で、働く個々人が意識しておくべきこともあるのでしょうか。
ひとつ注意したいのは、何でもかんでも「ストレス=メンタル不調」として捉えてしまうのは、その人にとっての健全な成長機会を削いでしまうリスクにもなりかねないということです。私も昔、サラリーマン時代に本当にメンタルがきつかった時期もありながら、それでもその経験を通してひと皮むけたという実感がある時期もありました。つらかったけど成長したと感じられる時というのは、その手前では当然ストレスがかかってはいるものの「ストレス=メンタルヘルスの危機」という図式を短絡的に当てはめてしまうと、個人としての、ひいては会社としての成長機会をある程度奪ってしまうことにもなってしまうと思うのです。
私はよく「メンタルの問題なのか、“成長痛”なのか」という話をするのですが、現在の精神的負荷は、自身の成長のために乗り越えるべき壁なのか、それとも「このまま進むと本当にメンタルダウンにつながるものなのか」の判断は、極めて線引きが難しいものです。きっと成長につながるものであるというときには、意欲や気力もちゃん湧いてくる一方、それが疲労感や徒労感、「もうどうでもいいや」といった無気力に形を変えた瞬間、もうメンタル不調の入口に来ているのだと言えます。その変化のポイントを本人が見極め、自覚的に回避できれば最高ですが、これはやはり経験値をもって判断してくれる存在が大切だと思います。
また、長時間労働が長期化するのもメンタルを損ねる大きな原因となります。すごく頑張らなくてはいけない時期に、半月や1カ月程度、苦しかったりつらかったりする長時間労働が集約的にぐっとかかることもあります。そういったストレスは、基本的に成長に資するのではないかと思いますが、漫然とストレスがかかる状況が数か月にわたる場合、これはメンタル不調に繋がる可能性がある。こちらについては、客観的に状況を見守り、アラートのタイミングを見極めてくれる存在は必要でしょう。これはラインケアという観点の話にもなってくると思います。もちろん、経験値がない本人に判断を任せるのは無理だと決めつけて、本人に何も期待しないというのも問題です。どういうサインや兆候があるときに注意が必要なのかを正しく教えるセルフケアの観点も重要です。
ストレスケアは総力戦。自分自身にも、そして見守る人たちも正しい知識が必要で、さらに定量的な指標も必要だと思います。さまざまなエビデンスをうまく組み合わせながら、“成長痛”に溢れた世の中になることは良いことだと思います。一方で、成長痛を通り越したメンタル不調の予備軍がただただ増えていく世の中は大変に嘆かわしい。そこの峻別をする仕組みとか、確かな知識といったものが、今後はより求められていくのではないかと思っています。
まとめ
メンタルヘルスやストレスの認識については、まだまだ修正していく必要がありそうな日本の社会。まずは企業が主導して、従業員のメンタルヘルス対策をあるべきスタイルへ導くことも、健康経営の重要な課題といえるでしょう。
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