「やめる自由」を取り戻すために。専門医が語る、ニコチン依存の脳科学と禁煙へのアプローチ

前回の記事では、加熱式タバコにも数多くの健康リスクが潜んでいることを、中央内科クリニック院長の村松弘康先生に伺いました。安全なタバコは存在しない――。その厳しい現実を踏まえ、今回は「では、どうすれば禁煙できるのか」をテーマに、ニコチン依存の正体と、科学的根拠に基づいた禁煙アプローチについて、引き続き村松先生に深く掘り下げていただきます。

インタビュイー
村松 弘康(むらまつ・ひろやす) 先生
中央内科クリニック 院長 東京都医師会タバコ対策委員会アドバイザー
呼吸器内科・アレルギー科の専門医。国立国際医療研究センター、同愛記念病院、慈恵医大などの勤務を経て、2013年から実家の中央内科クリニックに勤務。喘息やCOPDなどの専門的な治療を行う傍ら、数千人規模の禁煙外来を担当。その豊富な臨床経験から、日本禁煙学会理事や日本呼吸器学会の禁煙推進委員会副委員長、東京都医師会タバコ対策委員会委員長などを歴任し、喫煙問題に関する社会的な啓発活動、特に若年層への喫煙防止教育にも精力的に取り組んでいる。
インタビュアー
野口 裕輔(のぐち・ゆうすけ)
エムスリー株式会社
医師・産業医・労働衛生コンサルタント
産業衛生専門医・健康経営エキスパートアドバイザー
禁煙と意思の弱さは関係ない ーー脳と関係するニコチン依存症という病気
──「やめたいのに、やめられない」というのが、多くの喫煙者の本音だと思います。なぜ、タバコをやめるのはこれほど難しいのでしょうか。
村松先生:実は「意志の弱さ」が原因ではありません。ニコチン依存症という“病気”であり、“治療が必要な状態”だからです。「吸う権利や自由」で始めたはずのタバコですが、喫煙する方々はタバコに対する依存によって「やめる権利や自由」が奪われている状態なのです
この依存には大きく分けて2つのタイプがあり、ご自身がどちらが主体であるかを知ることが重要です。一つは、体内のニコチンが切れると禁断症状が出る「身体的依存」。朝起きてすぐに吸わないと落ち着かない方は、こちらが強い傾向にあります。もう一つは、仕事の休憩時間や飲み会の席など、特定の状況と結びついた「心理的・行動学的依存」です。特に身体的依存が強い方が、自己流で「本数を減らす(減煙)」という方法をとるのは、実は逆効果になることが多いです。空腹を極限まで我慢した後の食事が格別に美味しく感じられるのと同じで、かえって一本一本のタバコが非常に美味しく感じられ、「こんなにうまいものをやめられるわけがない」と、禁煙への意欲を失ってしまうのです。
──依存から抜け出すには、科学的なアプローチが必要なのですね。ニコチン依存は、脳の中でどのようなメカニズムで起きているのでしょうか。
村松先生:タバコを吸うと、ニコチンは脳の「脳内報酬系」という部分を刺激し、快感物質であるドーパミンを大量に放出させます。当初はドーパミン過剰となり嘔気などの不快感を覚えますが、この状態に順応して脳内ではドーパミン受容体の数を減らす「ダウンレギュレーション」という変化が生じ、ちょうど良い量のドーパミン刺激だけを受け取り快感を覚えるようになります。すなわち、“ニコチンありき”で脳がバランスを取り直してしまった状態であり、こうなると今度はニコチンがないと物足りなさやイライラを感じるようになり、タバコがやめられなくなるのです。これがニコチン依存症の正体です。

禁煙治療で使うニコチンパッチは、ニコチンを皮膚からゆっくり吸収させ、血中濃度を低く一定に保ちます。過度なドーパミン刺激を与えずに禁断症状だけを抑え、減り過ぎたドーパミン受容体が正常な数に戻るのを助け、脳を徐々にリセットしていくのです。しかし、加熱式タバコも「吸う」という行為でニコチンを摂取する限り、血中濃度を急上昇させ、脳の報酬系を強く刺激し続けます。これでは脳の受容体はリセットされず、ニコチン依存から抜け出すことは生理学的にあり得ないのです。
──海外では電子タバコを禁煙治療に使うという話も聞きますが、それはどう考えれば良いのでしょうか。
村松先生:まず、海外と日本ではタバコに対する規制状況が全く異なります。例えばイギリスでは、「2009年以降に生まれた若者にはタバコを売らない」という、将来的にタバコの販売を中止する方針を国が打ち出しています。そうした厳しい規制の中で、どうしてもやめられない重度の依存症の方々への最終手段として、限定的に電子タバコが使われているに過ぎません。
また、権威あるコクラン・レビューで「電子タバコは禁煙成功率が高い」というデータが示されたことがありますが、これも注意が必要です。電子タバコによる禁煙成功率を見る研究では、「紙巻タバコをやめて電子タバコに切り替えられれば禁煙成功」とカウントされており、ニコチン依存から脱却できたかどうかは問われていません。一年後に追跡調査をすると、電子タバコに切り替えた人の80%がまだ電子タバコを吸い続けていたのに対し、ニコチンパッチで治療した人のほとんどはニコチンなしで生活できていました。どちらが本当の禁煙成功かは、明らかですよね。

企業がすべき禁煙対策は正しい知識の啓発から
──それはデータの読み方に注意が必要ですね。最後に、従業員の「やめる自由」を取り戻すために、企業や健康経営担当者はどのような役割を果たすべきでしょうか。
村松先生:企業には、従業員個人の努力任せにせず、科学的根拠に基づいた禁煙サポートを組織として推進する責務があります。具体的には、禁煙外来の費用補助や、通院しやすい勤務体系への配慮といった経済的・制度的サポート。そして、本日のような正しい知識を社内で継続的に啓発していくことが重要です。
──まずは科学的根拠に基づいた対応が重要になるわけですね。
村松先生:まさにそこが重要になります。喫煙行為は単なる嗜好ではなく依存だからです。また、職場の受動喫煙対策は、健康経営の必須項目です。例外のない敷地内全面禁煙の徹底や、喫煙所以外の新たなコミュニケーションの場を創出するといった、吸わないことが当たり前になる文化と環境の醸成が求められます。
日本では、一箱500円台という安価なタバコ価格、諸外国に比べてインパクトの弱い警告表示など、国としての禁煙政策が世界に大きく遅れを取っています。だからこそ、企業が主体的に従業員の健康を守り、未来への投資として禁煙サポートを推進していくことが、これからの時代には不可欠です。従業員一人ひとりが健康で、持てる能力を最大限に発揮できる職場は、企業の最も価値ある資産ですから。
────本日はありがとうございました。
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